休日じゃないけど
ミリオンダラーベイビーについて思ったこと
1970年代、ダーティハリーシリーズで人気沸騰、カウボーイ姿もとてもサマになっていたクリント・イーストウッド。
監督、主演、音楽とこなす彼は、見事におじいさんになったなぁ、というのが素直な印象。しかし、出涸らしじゃない。とても味がある。
劇中、フランキーがゲール語の本を読んでいるシーンが多々あった。
今思えば、これが大きなテーマだったんだ。
関係ないけど、確かEnyaの歌もゲール語じゃなかったっけなぁ…。
以下は作品についてふれてしまうけど、ちょっとした僕の感想。
ゲール語について(出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
日本で「ゲール語」として紹介されているものは、そのほとんどがアイルランドのゲール語である。
アイルランドのゲール語は、アイルランド語とも呼ばれ、アイルランドに於ける第一公用語として指定されてはいるが、この国で日常的にこの言語が使われるのは、ゲールタハトと呼ばれるごく一部の地域だけである。
マン島のゲール語は、グレートブリテン島西方アイリッシュ海に浮かぶマン島で話されていた言葉で、既に絶滅した言語と言えるが復興の試みが続けられている。
、、、と、言うことはですよ。
これこそが、彼がこの作品で最も描かんとしていたテーマなんじゃないかな。
同行者から教えてもらったことも合わせて整理してみると、
1. マギーはアイリッシュ・アメリカン
(フランクはどうなんだろう?)
2. 羽織っていたガウンの色は、アイリッシュのナショナルカラー
3. 背中に描かれていた「ハープ」は、アイルランドの象徴
4. 要所要所で教会や神父が描かれていたけど、彼女はカトリック教徒。
そこに、一国から消えゆかんとする言語ですよ。
フランキーの比喩とともに、これこそがその結末を暗示、示唆する重要なキーとなっている。
“夜の闇は夢を見せてくれるのに、昼の明かりは全ての現実を隠してくれない。”
これもそうだ。
昼間はウェイトレスとして働くマギー。貧困。冷たい現実。顔の傷。
薄暗い夜のジム。希望を胸に練習に励む彼女。その暗闇からひょこっと顔を見せるフランキーや義眼。
これは何を表現しているのか、ということだ。
娘に絶縁されているトレーナーと家族愛のない選手が、お互いに親子愛のような関係へと進展する物語。
全編を通して下品なC.G.を使うことなく、映画らしい淡白な表現で昼と夜の描写をうまく使い分け、それによって適確に光と闇を表現し、この作品の持つよい意味での古臭さが、それらを見事に調和させていた。
どのシーンにも意味がある。別の映画でその意味は知っていたんだけど、冒頭の"EXIT"なんて奥深いよね。
クリント・イーストウッドには、ただただ感嘆せざるを得ない。